読む、観る、聴く

大好きな本や映画、音楽について書いてます

村上春樹の「アフターダーク」を十数年ぶりに読んだ

誰にはばかることもなく「私はハルキストである」

と自信を持って言える。

 

多分。

 

ハルキストとは村上春樹の熱烈なファンのことをいう。

 

僕は中学生の頃に「ノルウェーの森」読んで

以来ずっと村上春樹の小説に触れてきた。

 

高校1年生のときに「海辺のカフカ」を読んで

高校2年生のときに「アフターダーク」を読んだ。

 

あの頃は村上春樹の創作ペースは随分早かったのだと

今、振り返ると思う。

 

アフターダーク」以外の作品は相当なんども

しつこく読んだ。

 

ノルウェーの森」は10回は読んだし、

僕と鼠の一連の中編・長編は4回通しは読んだ。

 

だけど「アフターダーク」は高校生の頃に一度読んだ

きり、今まで手をつけなかった。

 

そこになんの疑問もなかったのだが、

この度再読してみて、この謎に思い立った。

 

と同時に理由もはっきりした。

 

多分、高校生の頃の僕は、他の村上春樹作品と

比べて「アフターダーク」に違和感を感じたのだろう。

 

違和感の1番の呼び水となったのは

物語の語りかたに寄るところが大きい。

 

物語は様々は目線で語られる。

 

一つはそれぞれの登場人物の目線。

 

もう一つは読者も巻き込んだ私たちの目線。

 

私たちの目線というのが違和感の正体だ。

 

語り手が常に読者も巻き込みながら主観を交えて

語る。

 

例えば

 

"私たちの視点としてのカメラは、そのあともしばらく

洗面所に留まり、部屋の内部を映し続けている。”

 

とか

 

"ホテル「アルファヴィル」の事務所。カオルが不機嫌そう

顔つきでパソコンの前に座っている。液晶モニターには、

入り口の防犯カメラの撮った映像が映っている。クリアな

映像だ。"

 

なんとなく芝居の台本みたいな語りに違和感を感じる。

 

思うことは「この語り口はどんな効果を狙って

書かれたのか」ということだ。

 

すぐ思いつくのは「読者を物語に巻き込み

たいから」という意見。

 

「私たち」という単語や、私たちのカメラ

の目線を意識させる描写があることで、必然

的に読者が物語を主体的に見てるように感じさせる。

 

少し深く考えていく。

 

すると読者を巻き込んだ話者も、登場人物も

読書も一緒くたに感じられてくる。

 

私たちが集合的無意識で繋がっているような

気がしてくる。

 

ジャズトロンボーンをやる男性が話の中で

 

”二つの世界を隔てる壁なんてものは、実際には

存在しないのかもしれないぞって。”

 

というシーンがある。

 

この言葉が闇と光、他人と自分、日常と非日常の

壁なんて実はないんだ、と言っているような

気がしてくる。

 

これは「ノルウェーの森」の

 

”死は生の対極にとしてではなく、生の

一部として存在している”

 

という言葉とも関連を感じさせる。

 

アフターダークまで村上春樹は度々「異世界

のことを描いてきた。

 

例えば「ねじまき鳥クロニクル」井戸の底

の世界を。

 

ダンス・ダンス・ダンス」では死後の世界

と現在を羊男が繋いだ。

 

海辺のカフカ」でも森の向こうを抜けて

第二次世界大戦ごろの世界と接続した。

 

でもこの「異世界」たちは読者からは

あまりに遠くて本の中の世界でしかなかった。

 

だから村上春樹は「アフターダーク」で異世界

夜という明るい世界の延長線に描いた。

 

そして私たちの目線を使うことで、異世界

我々の世界の一部であることを強く感じさせよう

としたのではないか。

 

以上が、私が「アフターダーク」の奇妙な語り口

について考えたことだ。

 

この語り口が狙いの効果を発揮したのかはわからない。

 

少なくとも僕にはザラザラとした手触りの

異物として映った。

 

しかし登場人物同士の会話は今までの

作品以上に面白かった。

 

また10年くらい経ったら読んでみたい。